カヤック日記


2021年5月の出来事

写真:繁殖でなにかと忙しそうなコチドリたち。













写真:繁殖でなにかと忙しそうなコチドリたち。

つい先日2021年になったばかりのような気もしますが、もう6月になりました。
6月になったので例年通りのウミガメ調査を始めています。
8月いっぱいまで、危険なレベルの気象にならなければ毎日通います。
9月以降の孵化の季節の調査も含めると毎年100日ほど通います。 さて、今年はどうなることでしょう。
ウミガメの産卵に関しての人間側の行動変化が最も影響するのは海水浴場の開設状況です。
これはもちろんウミガメだけに関するものではなくて同じく観察を続けているシロチドリ、コチドリといった砂浜海岸で営巣する鳥類の繁殖にも大きく影響します。
さらには今年から観察を始めている海岸に棲むハエトリグモのスナハマハエトリの生活にも大きく影響するはずです。
海岸植生の状況にさえ変化が起きています。

写真:テリハノイバラの花の季節です。













写真:テリハノイバラの花の季節です。

私が観察している範囲は海水浴場になったり海岸キャンプ場になったりもする海岸と、通常の夏でも人がほとんど入らない海岸とがありますので、その対比は大きな興味の一つです。
昨年の夏には海水浴場が閉鎖されて海岸は生物の繁殖に適した自然の世界が一時的に戻ってくるのだと想像していて、実際にそういう面もありました。
しかし、いつもは海水浴場で指定されない海岸で泳ぐ人が増え、海水浴場に指定されている海岸では人の数は減ったものの、いつものように「遊泳区域」として決まった範囲だけでなく海岸全体に人が広がり、むしろチドリの繁殖には良くない面もありました。
キャンプ場が開設されなかったのは海岸で過ごす生物すべてにとって良い条件でしたが。
そういういつもと違う、よくいえば自由な海岸の過ごし方が突然に始まったわけですが、自己判断で泳ぐのに適した場所を選ぶセンスが日本人に全く欠如してしまっているということを確認しました。
ライフセーバーが不在な中で遊泳区域という比較的安全に泳げる場所も指定していないために、離岸流のある位置や、浅くて海底に岩のある場所、山から沖に向かって強い風が吹いている日などに楽しそうに水に入っていく恐ろしい場面を多数見ました。

写真:穏やかな館山湾ですが油断はできません。山風の場合、このようなベタ凪になる時がありますがジワジワと沖に流されます。















写真:穏やかな館山湾ですが油断はできません。山風の場合、このようなベタ凪になる時がありますがジワジワと沖に流されます。

海水浴場が指定されるようになり長いですから、考えもせずにその中で泳ぐということで、海を判断する必要がなくなり、その能力が身につかなくなったのでしょう。
そのうえ監視員が配置され、溺れても流されても監視員が助けてくれるだろうという安易さまで身に付いてしまっています。
これでいきなり、どこで泳いでも自由という状況にしてしまっては事故が起きない方が不思議です。
生き物の繁殖の影響よりも、昨年はそっちに頭を悩ませて過ごしていた印象です。
海岸に派遣された警備員がいましたが(かなり異様な光景でしたね)、彼らに訊いてみると遊泳に関する安全管理については支持されていないという事でそれに関する声掛けは一切行っていませんでしたし、実際のところ海岸に来ている人々と同じで海のことは知らないわけです。
そして海岸に来て泳いでいる人々の行動の基盤となっているものが何なのかというと、「他の人がやっているから大丈夫」ということなんですね。
訊いたわけではないですけれど見ていると分かります。
今の社会の縮図です。

写真:ハマボウフウの花の上で餌となるハエが来るのを待っているスナハマハエトリ。













写真:ハマボウフウの花の上で餌となるハエが来るのを待っているスナハマハエトリ。

波の力が強く、流れも強い太平洋岸で子供の手も取らずに、小さな子たちだけで波打ち際で遊ばしているのを繰り返し見かけ、そういう場合はさすがに声をかけて「波にさらわれてしまいますよ」と伝えるのですが、よく返ってきた言葉は「足の届くところまでしか行かないので大丈夫」でした。
その判断を小学校低学年や小学生にもなっていないような子に判断させるんでしょうか?
しかも、そう言っているお父さんは足を濡らすこともなく離れて見ているという状況がほとんどです。
単純にまず、お父さんお母さんが水に入ってみることです。
途中から急に深くなっていることや、波の力が意外に強いこと、足をすくわれるような強い流れが浅瀬にあることを体感したうえで子供を泳がせられるのか考えるべきです。
これはヤバいと気づけるかもしれません。
どこの海だろうと自分が先に水に入りもせずに子供だけ海に入れるのは子供を殺すためにやっているような行為です。
ライフジャケットを着けてるから大丈夫とかいう声も聞こえてきそうですが、沖に流れていった子を泳いで助けに行ったら、その人がなくなってしまう可能性が高いです。
海上保安庁だってすぐには来ません。
それまでに波間に見えなくなるか低体温症になってしまうでしょう。

写真:オカヒジキの中で過ごすスナハマハエトリ。彼らにとって海浜植物は貴重な存在。















写真:オカヒジキの中で過ごすスナハマハエトリ。彼らにとって海浜植物は貴重な存在。

…と昨年を思い返していろいろ不安になってきましたが、今年はどうするつもりなのでしょう?
海水浴場を開設するかしないかということではなく、開設しないなら、いつもは海水浴場に集中している人々がどこであろうと自由に泳いでいる状況を誰が管理するのか?ということです。
それとも日本もやっと自己責任が必要な国になったのでしょうか?
「どこで泳いでも自由、ただし誰も助けない、死んでも自己責任」
シーカヤッカーはこれまでもそうやって海に出てきましたから、今に始まった感覚ではないのですし、むしろそういう世界は大歓迎なのです。
しかし一般の、アウトドアとは無縁で生きてきた人たちが、その感覚を養い始めるのを千葉県の黒潮に接する厳しい海でスタートするのは危険すぎます。
シーカヤッカーでも初心者の時に、海岸はどこも同じに見えるという段階があります。
何がどう違うのか、おっかないので色々と調べて、そのうえで湾の奥で流されないように岸の近くで練習するのです。

写真:浮島と環水平アーク




















写真:浮島と環水平アーク

海水浴は考えようによってはシーカヤックやサーフィンよりも危険な遊びです。
なにしろ浮力体を持っていないのですから。
あとは当人が危険を覚悟していないということも大きいです。
海みたいなおっかないものに生身で入っていくのですから、「海水浴」なんてのんびりした名称はやめた方が良いような気もします。
実際、海水浴が始まったころには湾奥の穏やかな海でお風呂に入るように水に浸かるだけだったそうです。
知り合いから聞いた話ですが、温泉療養のような健康のために海水に浸かるというようなものだったそうです。
鋸南町の保田海岸には海岸沿いに「房州海水浴場発祥の地」という碑が立っています。
なるほどここなら良いな〜という感じの海ですが、私は昨年そこでカツオノエボシに刺されました…。
海は全く油断できない相手なのです。と自身改めて感じた次第です。
海の怖いことばかり書きましたが、本当に今年は心配です。
個人の生死という事でいえば新型ウイルスなんかよりも海の方が怖いですよ。
悪い場合は数分あれば死んでしまいますから。

写真:今年も内房某所のハヤブサの繁殖確認できました!ヒナが2羽!













写真:今年も内房某所のハヤブサの繁殖確認できました!ヒナが2羽!

本当に今年はみなさん注意して、特に太平洋に面した海で泳ぐのはやめてください。(千葉県で太平洋に接するのは館山の洲崎灯台から銚子に向かう海岸線のことです)
沖に流されたとき、海底で何かの問題が起きて浮上できなくなったとき、きっと陸が恋しくなるとおもいます。
生きてれば陸に帰れますし、家にも帰れます。
シーカヤッキングには「陸地に立てるってなんて素晴らしいことなんだろう!」という思いを仮に経験できる面があります。
こんなこと書くとカヤックだって怖くなるかもしれないですが、ツアーでカヤックを漕いでみて海を知れば少しは安全に海水浴だってできるようになるかもしれないですし、少なくとも海の怖さを知ることができると思います。
もちろん海の素晴らしさももっと知ることができるとも思いますし。
とにかく今年の夏の海岸がまた心配です。

写真:人力で海に出るのは昔から命がけの行為でした。















写真:人力で海に出るのは昔から命がけの行為でした。





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